モヒカニックなコミュニケーションの利便性


モヒカン族は砦の人々に定義される前からモヒカン族であった。
また、モヒカン族を定義したメタモヒカン族は、「ムラ社会」を手始めに、
様々なコミニティやコミュニケーションに関して分析を行い、
今後長く言及されそうな問題提起や考察を残している。


しかし、モヒカン族は数の上でも対人能力の上でも脆弱で、
予言の日を待たずして滅ぶ事も危惧されているし、
メタモヒカン族は既にその使命を果たしており、
その活動は今後急速に沈静化すると見られている。


それでは何故、終わりかけた祭りに言及するのかと言えば、
ハンドアクス文化は「生きた慣習」として必要だからだ。


time関数が2の31乗に達してモヒカン族が滅びようが、
メタモヒカン族がその役割を終えて砦から姿を消そうが、
どうしようもなくムラ社会な世界に物理的肉体を置く我々は、
風通しの悪過ぎるオフィスの中で窒息死してしまわないように、
過剰な、(日本語として)間違った表現のエチケットペーパーが敷かれていない、
直接的で合理的な言葉によるコミュニケーションを必要としているのだ。


単純な例を挙げよう。
エチケットペーパーを敷いて下さい。さもなくば誤字指摘でさえも人格攻撃と見なします。』
そんな看板が掲げられていたら、あるいはそれが暗黙の了解であったなら、
エチケットペーパーを敷くのを面倒に感じた通りすがりの誰かさんは、
たった一文字の誤字指摘でさえもしてくれないかも知れない。
誤字指摘によって利益を得るのは自分であるにも拘らず、
善意指摘者に対して過剰なコスト負担を求めてはいまいか。


では、善意の行為のハードルを下げ、風通しを良くして、
他人の善意によりもたらされる利益を受け取り易くするにはどうしたらよいか。
エチケットペーパーは不要です。ハンドアクスのまま投げて下さい。』
そんな看板を掲げるか、それを暗黙の了解にしてしまえば良いのだ。
かつてはネット上のいたるところでハンドアクスが暗黙の了解だったように見えたが、
今やケータイ族の大量入植により、その古き良き習慣は失われようとしている。
しかし、ハンドアクスが彼らに対し普遍的には通用しないにしても、
彼らの中にも、高効率コミュニケーションへの需要はあるのではないか。
いや、ムラ社会こそ、窒息死を避けるためにハンドアクスを求めているはずだ。


我々は、我々自身の利益のために主張せねばならない。
『もっとハンドアクスを、』と。