価値観の違いは存在しない?


今頃言及されても迷惑だろうとは思うが、
「『道徳の教科書』的な正しさ」とか言うものが
絶対的な正しさであると言う前提で書いているように読めて、
どうにも納得できない。

道徳の授業ってこういうお仕着せ的な「正しさ」を教えられるけど(それが絶対的に正しいわけではないと思うが)


なんて書いてるけど、彼が実際に文中で要求しているのは、

そいつが言う「人が嫌がるコメントなんてありません、内容の校正は云々」なんて答えは道徳の授業においては出題者が望んでいる正解ではない、ということは理解できますか?


「道徳の授業において出題者が望んでいる正解」なんですよね。


前提の価値観が違う時点で相手に通じないって事は分かってて書いてるんだろうか?
とぼけてるの? それとも、本気でその前提が違う人間の存在を認めないの?
後者だとすれば所謂「人格否定」だと思うのだが...。

必死こいてムラビトにまでハンドアクス投げないと死にますか?無断リンク禁止されたら死にますか?


非モテ議論はイマイチよく分からないのでノータッチ)

投げる側は黙々淡々、ヒトによっちゃ鼻歌交じりに投げてるだろうから、
「必死こいて」と言うのは投げられた側の話なんじゃないのかな?と思ったり、
仮に「必死こいて」ハンドアクスを投げてるヒトが居るのだとしたら、
そのヒトはもしかすると投げないと死ぬのかも知れないけど...。


で、もちろん投げなくても死にゃせんけど、じゃあムラビトは投げられると死ぬんですか?
「斧が刺さったら痛い事ぐらい分かるだろ、ってゆーか分かれ」って話だろうけど、
ハンドアクス投げてる人達は、刺さっても痛いと思わない人達なのだから、
メタモヒカン族のように分かったフリをする事はできても、
本当の意味でムラビトの痛みを分かる事なんて出来ないと思いますよ。
この方がガトリングガン撃った(道徳的人格否定をした)相手の痛みを分からないのと同様に。


感情を盾に取る事自体が脆弱と言う認識は必要だと思う。
例えば、はてなセレブな人達と言うか、揉め事を楽しんでるっぽい人達は、
突っ込む事も、突っ込まれる事も、楽しい事・気持ち良い事だと思っているのでは?
(そーゆー風に見えるんですけど、誤解ならばゴメンナサイ。)
感情を盾に「突っ込んだら傷付くじゃないか!」と口角泡を飛ばしても、
「突っ込まれたら美味しいじゃない」と素で返されるかも。


そもそも、感情を盾にする事自体、真っ当な大人のする事じゃないと言うか...。
(子供を守るために云々と言う話ならば真剣に考えたいけど、)


彼が続きとして書いておられる20日の文章には疑問を感じないんだけど、
それのスタート地点が、あの「『道徳の教科書』的な正しさ」なのはちょっと不思議。
だって道徳では「人が嫌がるコメント」=「内容を否定するコメント」なんて習わないもの。
学校の道徳で習うのは「間違いを指摘するのも相手を思えばこそなんだよ」的なもので、
これはつまりは「ハンドアクスは愛である」って事になると思うんですけど、
...もしかして気付かない内にモヒカン族居留地の学校に通ってたのか?
他の人達はそうは習わなかったのかも知れないな。