軸の異なるものを同じ軸にあるかのように語ろうとすると、
かなり強引な補完が必要になるのですね。


小三時間問い詰めたい - うさだにっきblog。:「モヒカン族と非モテ」


「共通項があるような気がするだけ」で始めながらも、
なんとしても非モテ議論へと落とし込みたい展開が興味深いです。


実際、この世の中にはモヒよりもムラビトの方が圧倒的に多いのだから、
モヒがその気質を発揮すればモテない」コト自体は何の不思議も無いのですが、
非モテと共通化するために「ムラビトと相容れないから」以上の理由付けをしたいようです。

噛みついて噛みついて気がついたら周りに誰もいない。


噛みつかれても痛く無いヒトが残ります。
皆が皆、悪意の無い事実の指摘に「恥をかかされた」と七転八倒するワケではありません。


例えば、ムラビト指摘者との人間関係によって指摘に対する反応が変わるため、
モヒとの距離が近ければキツネリスに接するように「ほら、痛くない…」とか言い出します。
難しい話ではなく、赤の他人に「鼻毛出てるよ」と指摘されたら恥ずかしいが、
家族に指摘されるのは平気、とか、そーゆー次元の話。

モヒカン族は寂しがる。「自分の事なんてどうでもいいの?」その辺が非モテの心理にすごく近いんじゃないかと。


まず、脈略無く寂しがり始めたコトに吃驚した。
更に「自分の事なんてどうでもいいの?」に発展したコトにも吃驚。


これがモヒ非モテの心理らしいんですが、
それって何かサンプルがあって仰っているのでしょうか?
モヒのヒトも非モテのヒトもどっちも同意しないような気がします。
モヒでも非モテでもなく、貴方の心理なんじゃないですか?


周りのヒトが減って「どうでもいいの?」と感じるコト自体、
恋愛至上主義的な発想じゃないかと思うんですけど、どうでしょう?

そんな中ムラ社会の馴れ合いから生じる「モテ」に嫉妬して、


「慣れ合いから生じるモテ」って普通のモテよりコスト高そうですね。
恋愛に対してあまりコストを投入したくないヒトはその「モテ」には嫉妬しないのでは?
「向上心が無い」と叱られるかも知れませんが、リーズナブルな恋愛で満足するヒトも居ます。

反動で反ムラ社会的行動を取り始めるんじゃないか。


モヒによる反ムラ社会的行動と言うものを見た事がありません。
将来的なリスクについて仰っているのか、既にその様なものがあるのか、
それは「ムラビトによる反合理的(反モヒカン的)行動」とは違うものなのか、
より詳しい説明を期待します。

モヒカン族ムラ社会」的言説が起こるのも、モヒカン族ムラ社会へのこの「どうしようもない劣等感」が原因のような気がする


「この『どうしようもない劣等感』」が、どの劣等感なのか直前の文章からは見つけられませんでした。


モヒカン族ムラ社会」的言説は主にモヒカン族に反発するムラビトが抗議の意で掲げている様です。
モヒカン族は、自分達の価値観においてはムラビトのスタイルがベストでは無いと考えるだけで、
その他の多くの評価軸においてはムラの方が優位である事は理解していると思います。

要はモヒカン族は「議論を通じて人とつながりたい」人たちなんだろうと思う。拳で語る友情なんかに憧れる人なんだ。こうみるとモヒカン族って近代的でも何でも無い。


一文目と二文目がどう繋がるのか良く分かりませんが、二文目と三文目は繋がっている気がします。
「議論を通じて人と繋がりたい」のは近代的だと思いますよ。でも、現代的ではないかも。
現代的なのは、貴方の仰る「何となく馴れ合いでやっていく」スタイルですね。

もの凄く前時代的で不器用で、今の「何となく馴れ合いでやっていく」ムラ社会的価値観とは合わないんじゃないかな。


ムラ社会的価値観とは合わない」はゴール地点ではなく、
メタモヒ議論におけるスタート地点ではないかと...。